前回に続き、北アルプスの薬師岳(2,926m)を紹介します。2013年8月。前日の晴天とはうって変わって翌日は予想外の雨。気象予報士といえども、予想が外れることもあります。太郎平を出発すると一旦、樹林帯に下ります。そこからひと登りすると、森林限界を越えて薬師平と呼ばれる湿原帯に出ます。正面には黒部五郎から北ノ俣岳など北ルプスの名峰が美しく見え、沢山の花が咲く庭園のような雰囲気の場所です。薬師岳方面に向かう際には、ここで荒天時の天候判断をおこなうようにしましょう。
また、風雨が強いときは、着衣のチェックも重要です。風が強くなってから着替えると、ザックを空けるときにものが吹き飛ばされたり、風雨で体温が奪われて低体温症になることがあるためです。
太郎平から薬師岳への登山ルートでは、薬師岳小屋の辺りから山頂までの間がもっとも風の強まる場所です。したがって、薬師岳小屋も進退を判断する際の重要な場所になります。13年夏は、登山前にチェックした天気図や、現場で雲の流れを確認して、これ以上風は強まらないと判断し、登山を続行しました。山頂は残念ながら霧の中でしたが、この5年後、2018年夏に訪れた際には、遂に快晴の薬師岳の山頂を踏むことができました。
写真1 快晴の山頂からの剱岳
薬師岳は、技術的に困難な箇所はなく、登山道も整備されていることから、ガイドブックなどでは初心者向けの山として紹介されることもあります。しかしながら、悪天時には日本海からまともに風が吹き付け、森林限界を越えると風を避けられる場所がほとんどありません。技術的な難しさと、天候判断の難易度は同じではありません。天候判断の難易度はガイドブックに書かれていないので自分で判断するしかありません。
薬師岳の空見(そらみ)の基本は、日本海がある方角の空を見ること。薬師岳で天候が急変するときは、そのほとんどが日本海方面から天気が悪化するときです。そのようなとき、富山平野や能登半島、日本海方面に雲が連なっているのが見えます。こうした特徴が見られるときはすぐに、樹林帯や窪地、山小屋など安全地帯に避難しましょう。
写真2 天候急変を告げる日本海方面の雲
また、夏の日中は、南側にある黒部五郎岳や北ノ俣岳方面の雲にも注目しましょう。それらの山の裏側には高山盆地があります。盆地では日中、気温が上昇するため、熱せられた空気が上昇して入道雲ができます。上空で南風が吹いているときは、この雲が流されて薬師岳方面にやってきます。そうなると、落雷や強雨のリスクが高まるのです。
写真3 湧き立つ入道雲
薬師岳の山頂は広く、稜線を歩いていると、天空の尾根を歩いているかのようです。西側で湧き立つ入道雲。東側では黒部渓谷の深い谷が切れこんで、雲の通り道になることもあります。北側にはピラミダルな剱岳の姿がひときわ目立ち、南側には岩の殿堂、槍・穂高連峰が聳えたつ。それら男性的な山を遠くに望む、優美で女性的な山容の薬師岳。次に訪れたとき、どんな表情を見せてくれるのでしょうか。
朝日新聞長野版、富山版、福井版2019年7月25日掲載
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文、写真:猪熊隆之